第二回「浅草今昔」
浅草の地名の由来は「草が浅く茂っていたから」とかチベット語で「アーシャ・クシャ=聖なるものの住まいから」とか諸説があるようだ。そう言えば観音裏辺りは1960年代まで「象潟(きさかた)」という町名だった。江戸時代、秋田県象潟町の沿岸一帯と似た風景であったことから同県出身のお殿様が「象潟」と名付けたようだ。浅草は今でこそ日本を代表する繁華街だが、今の街並みとは全く想像できない地名だった。
その後、大きな変化は江戸時代に観音様のご利益も手伝い、金融の中心として蔵前の米蔵、日本一の遊郭だった吉原、そして猿若町の歌舞伎等、新しいモノやコトを最初に取り入れて人が集まり、お金を落して行く仕組みが浅草にあった。
そしてそれらが無くなっても次を考え、取り入れて活性化を継続的に図って来た。
寿町辺りのお寺も一役買い、食べ物商売も栄えた。
明治、大正、昭和に入り,花やしきや松屋デパート屋上の遊園地,六区の活動写真(映画)、演芸・演劇、SKDのレビュー、オペラ、そして12階凌雲閣(今で言うタワービル)、地下鉄開通等そのほとんどは浅草が最初にやり、時代の進化に機敏に対応し、新陳代謝を図って来た。 演劇人、文化人も多数,輩出した。
進取の気性に富んだ人々が浅草を日本一の繁華街にしたが、今から60年ほど前、東京オリンピック辺りから世の中が右肩上がりの好景気であったにもかかわらず急激な衰退の一途を辿っている。
その主たる原因は若者に魅力のない街になってしまったためではないかと思う。
コロナ禍も手伝い、昼の浅草も活気がなく、特に夜の浅草は退潮著しい。
昔は六区はもちろん仲見世だって夜の10時11時まで賑やかだった。
弊店がある観音裏もオモテの浅草同様、寂しい街になってしまっている。
因みに70年程前の賑った頃は100軒の料亭、600人の芸者衆だったが、今は4軒、20人程となり、その衰退ぶりがわかる
浅草は「信心と娯楽の街」だ。
変えてはならないもの=浅草寺・浅草神社 と、変えなければならないもの=娯楽 が上手く絡み合って進化、発展して来たことは間違いない。
ならばこの「信心」を基盤に時代の進化に合わせ、更に先取りした「娯楽」を見つけなければ浅草の明日はないようだ。
浅草は賑やかでなければ浅草ではない。
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